拷問という道具

今朝出勤途中の車の運転中(なんせ、片道45キロも職場まであるので)、公共ラジオ放送(NPR)の番組が、元軍人でFBIと共同で取り調べ担当官がゲストで出ていた。

彼はアブグレイブ刑務所で取調べをしたらしく、最終的には精神的に参ってしまって、退役した人だった。彼の拷問に対するアメリカでの911やイラク侵攻での問題はこうのように話していた。

軍では拷問という行為での情報収集・自白というのは効果的でないということが研究結果としてでているそうです。つまり信憑性にかける→拷問で得る情報の真否は、拷問でない取調べで得た情報よりも確かではないということだった。

そしてもちろん、倫理的にみても反しているということだった。

リスナーの質問で、もし2001年9月10日に911の主犯格が警察にテロと無関係な事件で捕まったとしても、自白させる手段として拷問は使わないのか?というものだった。

このゲストの解答は、もし本当の911のテロ主犯格であれば、あと8時間も待てば911が起きると自覚しているはずであり、それまでは拷問されようが黙秘するであろうということ。もし拷問で何か情報を得たとしてもその信憑性へのリスク、アメリカの人権に反する行為は、その後の(つまりこれが現在のアメリカの大問題であるが)アメリカへの世界からの印象の悪化・影響力低下を招くので、結局は限られた情報しか集まらず、911を回避はできなかったのではないか、ということだった。

そして、次のリスナーの意見はこうだった。
911以来、拷問という行為が当たり前のように取調べの手段として話題になり、その是非が問われるのではなく、その手段が効果的かどうかということが問われるようになった。

911以前はアメリカ=拷問という方程式は成り立つには程遠かったが、現在はアメリカ=拷問という印象が世界(特にアラブ世界)に蔓延している。この状況は異常ではないのだろうか?という電話であった。

この電話の意見を聞きながら、ふと思い出したことがあった。
大学受験時、高校生読本という本を買って読んでみると、少し昔の日本の哲学者の文章で、死ということ、その価値観について書かれたものだった。端的にまとめると、死というものはその人間の数によってその死への感情が変わるものではないというような内容だった。
つまりは、例えば交通事故で死者が1人であろうが10人の大事故であろうが、その死への重みは決して比べることのできないものだというような感じだった。

そうそう、イラク侵攻以来、イラク市民の犠牲者が一つの爆弾で多いと悲劇だとか、アメリカ兵が1人犠牲になった日、8人犠牲になった日、どちらも比べることができないというのが、その哲学者の理論だった。確かにそうなんだよな、と納得した当時の自分がいる一方で、ニュースを見ながら、聴きながら、犠牲者の数で自分へのインパクトが違うというのに気づくことがほとんどでもある現実。

今年の秋からEnd of Life Careのプログラムを卒業した学校でとろうと計画中。自分のなんとなく描いていた希望の仕事へ向かって。

生きていること、死にゆくこと

なんだか心に響く言葉です。
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by duggo | 2007-05-30 14:02 | MSW
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